米国の戦争観と正義〜永井政治学に学ぶ

 永井陽之助氏は米国の戦争=平和観に「正義の戦争」という思想がひそむことを『平和の代償』(P167)で指摘していることを「ビンラーディン氏の死」で述べた。http://d.hatena.ne.jp/goalhunter/20110503
 この著作は中央公論に発表した三つの論文から構成されている。
 第一論文「米国の戦争観と毛沢東の挑戦」
 第二論文「日本外交における拘束と選択」
 第三論文「国家目標としての安全と独立」
 「日本外交における拘束と選択」が発表当時の主要な論争になった処であり、本の題名となった“平和の代償”も、ここで使われている。更に、今でもクローズアップされる「現実主義(菅首相)」「力の均衡理論(渡辺喜美みんなの党党首)」が議論されている。この点については別途述べることにする。

 実は、第一論文で明らかにされた「米国の戦争観」は、日本国憲法第9条の問題を議論の導入(P8)にし、それが第三論文の「戦後平和思想における密教顕教」、特に米国リベラリズムの“村落者の平和哲学”と日本の“自然村平和哲学”との内面での一致、との指摘に繋がっている(P171)。「正義の戦争」はこの文脈のなかで現れてくるから、日本人として思想的に無縁であるわけではない。

 ここが私たちにとって、再度認識を新たにしておくべき問題点であり、自己認識の政治学でもある。以下、『平和の代償』の関係する部分を辿ってみよう。

 第一論文のなかで、ルイス・ハーツ『アメリ自由主義の伝統』をベースにしながら、アメリカは自由に生まれついた国であり、自由・平等が自然であって、それが当たり前の民主社会であることを指摘する。
 『…アメリカの国体の精神そのものが、われわれ日本人が想像する以上にラディカルで、進歩的…』と述べながら、『しかし、内に否定と対立の契機を含まないイデオロギーは何によらず危険である』(P10)とも言う。これが永井氏の基本的な立脚点なのだ。

 その自己イメージが国際関係へ投射され、特殊米国的な機構型の戦争=平和観が生まれる。
(1)平和と戦争は明確に区別される別領域。
   平和…正常         戦争…異常
     …性善な人の自然の調和   …外からの悪しき妨害
(2)平時にはほとんど外国への関心がない。
   外からの脅威を受け、反射的に力の行使にふみきる。
   戦争に巻き込まれたと思うと、無制限の拡大になりやすく、
   戦争は道徳的な十字軍になり、敵を“駆逐”して平和を回復させる。
   従って、政治的配慮を無視した“効率”万能の工学的戦争観になる。

 第三論文において、このような米国的戦争観=平和観が国際社会で認知されたのが不戦条約(1928年)であり、ロバート・タッカー教授の『正義の戦争』を引用しながら、『その根底には、自衛戦争は「正義の戦争」であるとの信念がひそんでいる』(P167)と述べ、更に日本国憲法第9条の特徴を意図だけでなく、能力(軍備)の点で戦力保持を禁止した、その徹底性にあるとした。
 一方、上記(2)のように、敵からの脅威と信じるや、正義の名において軍事力が発動され、無限定に拡大される傾向にあり、『…タッカー教授は「予防戦争」の正当化に導く危険な思想、と指摘…』と述べる。

 2003年3月の米国を中心にしたイラク侵攻に始まったイラク戦争は、大量破壊兵器保有の疑惑を名目とした「予防戦争」の発露と解釈できる。これと共に、ビンラーディン氏殺害もまた、敵は“絶対の悪”であり、この世界から一掃されることによって、オバマ大統領の言葉に示されるように、“正義は達成”されるとの考え方に基づいている。

 なお、このような考え方が外交過程に反映されると、第二論文の冒頭に書かれたように「無為の蓄積」と「全能の幻想」の悪循環がもたらされる(P72)。ここでは、“平和哲学”が内面で一致するとされた日本の外交も同じ傾向をもつことが指摘され、そこから、現代日本外交を拘束する要因の分析と選択のマージンを見出す議論が展開される。
 ここが先に述べたように、主要な論争になった処であり、現実主義、力の均衡という言葉も、その後、今に至るまで外交・国際問題を語るうえで、根付いてきている。この点についても別途述べることにする。
                                 以上