サッカーにおける公共善〜クライフの追求したこと〜

 正月の「WOWOW」でワールドカップ南アフリカ大会監督・岡田武史氏とヨハン・クライフ氏との会談が放映された。岡田氏がクライフ氏から何かを聞き出そうという企画のようにみえた。クライフ氏の話したことは、これまでの彼の語録と全く同じと言ってよいであろう。この対談から、彼がサッカーの「公共善」を最大の価値として追求し、それを74年のワールドカップでオランダチームとして試み、その後、監督としてバルセロナFCで具現した、これが明らかにされたと筆者は感じた。

 「公共善」とは何か、

 それは彼の語録、「美しく敗れる事を恥と思うな、無様に勝つことを恥と思え」「1-0で守り切って勝つより、4-5で攻め切って負ける方が良い」で表現されている。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95

 サッカーは得点をとるゲーム。選手も観衆も含めてすべての人はそれを期待している。また、それを追求するなかに「サッカーの緊張感と美しさが存在する」。ボールを奪いことはシュートへ結びつけることによってはじめて生きたプレーになるのだ。
 たとえば、観衆が半々でそれぞれのチームを応援しているとしよう。単に勝利を目指すだけであれば、勝ったチームだけが満足する。すなわち、全体からみて半分が満足するだけだ。それも勝利を第一とした互いに守りのサッカーであったなら、負けた方は美しさにも触れることができないで、不満だけが残る。

 一方、結果は得点・失点で相反するが、得点を求めて「サッカーの緊張感と美しさ」を求めあう試合であれば…勝負にかかわらず、試合内容そのものは共に満足できるものになるかも知れない。更に、それは両チームにとって共通の価値を追求したとの感覚をもたらすかもしれない。勝負としての結果が厳然としてあったとしてもである。

 全体がサッカーを通して喜びを感じること、これこそが「公共善」のはずである。
 しかし、それは一朝一夕にはできないことは確かだ。先ずは選手として、高い Brain, Body Balance, Ball Contol を身に着ける必要がある。そして、チームとしての表現が…。

 岡田氏はワールドカップの前に「美しさ」も含めて追求し、それが果たせないままに、ボロクソに言われ、実施の場で「勝負」に徹底して予選を勝ち上がり賞賛された。クライフとの対談で対峙したとき、当然、クライフの哲学をぼんやりと理解していただろうが、ある種の矛盾、それは日本サッカー界の矛盾の象徴的部分であるが、それを感じていたであろう。

 おそらく、それが「自分は勝負にこだわる」との内容のことを言ったのだと思う。しかし、岡田氏をボロクソに言い、一転して賞賛したサッカーファンやマスメディアは何も矛盾を感じずに、その後もただナショナリスティックな勝負に、或いはJリーグのひいきチームの勝利に、こだわり続けているように見える。