文楽 天変斯止嵐后晴〜翻案 シェクスピア「嵐」〜

久しぶりに文楽をみた。

国立劇場も歌舞伎「油地獄」以来久しぶりである。夕方、地下鉄永田町駅を降りて付近のコンビニでサンドイッチを買ったが付近で工事が盛んなのか?地下足袋を履いた作業員の方が複数、できたてのカップラーメンを直ぐ外で食べていた。仕事が終わった処でご苦労さまである。

「嵐」はご存じシェクスピアの晩年の作、その世界観が劇として表現されている。それを
文楽がどこまで表現できるのか興味津々であった。

第一「暴風雨」では、歌舞伎「勧進帳」の滝流しを思い起こす趣向で三味線と琴が7名並んだ演奏のみ、鶴沢清治の作曲も雰囲気を盛り上げる。人形、音楽、語りの総合芸術である文楽であるが、鶴沢清治の曲が「嵐」の場面をシェクスピアの世界として良く表現しているように感じた。

人形は妖精エリアールが可愛らしく作られ全体を盛り上げ、語りでは二番目に登場した豊竹呂勢太夫のメリハリの効いた声が印象深かった。

天変斯止嵐后晴、これを
「天変(てんぺん) 斯くて止み 嵐 后に 晴れとなる」と読む。

ところで、シェクスピアのは「嵐」すなわち「天変」が主題である。「天変」の表現がシェクスピアの世界観を表現し、「天変」が終わった後も「天変」の余韻を残し「天変」の世界観が引き継がれていく。

一方、文楽では、「天変」は前座であって、その後の「晴」が物語の主題となっている。シェクスピアの題にはない「后晴」が独立して劇となっているかのようである。であるから、シェクスピアの世界観は先に述べたように鶴沢清治の曲にわずかに表現されているが、人形、語りにおいては表現しにくかったと解釈する。残念ながら…。

物語の筋としてはシェクスピアの「嵐」は他愛のないものである。その点はオペラの名作でも同じである。人間としての個性が劇全体を貫くテーマと合体し、それが音楽を始めとした舞台芸術と相まってその作品を印象深いものにする。しかし、「天変后晴」では筋だけになっている。それは単なる男女の出会いの話であるから緊迫感がでてこない。従って、文楽としては成立ているが劇としてはやや散漫な感じを与えるのもやむを得ないことになる。

シェクスピア劇は作者がひとり全体を指揮するかのようにすべてを差配しているはずである。現実の劇の世界では演出者がそれを解釈して実行している。オーケストラの指揮者である。

しかし、文楽の世界では人形、語り、太棹三味線がそれぞれ独立に表現し、更に語り、太棹三味線では、お互いが競り合って自己主張しているかに見える。人形も3名で操りその仕草の細やかさは恐らく日本が作り上げた独自の表現方法のように思える。成熟し、円熟し、爛熟しているのである。
そこでは劇は素材であって芸術としての人形、語り、太棹三味線が全面に出ているようである。

試みは面白く、しかし、今回の意図は必ずしも観客に伝わらなかった、こんな感想である。