「歴史と資料、続昨日の続き」〜関前大阪市長はフルシショフ型〜


一昨日、昨日のブログから更に思い起こしたのはスターリン批判前後のフルシショフの動向である。


スターリン体制下では、その下で忠実な部下として抑圧、粛清に関与し、スターリンの死以降はマレンコフとの権力闘争で勝利し、その後、アメリカとの平和共存で名前を上げた。


しかし、56年のハンガリー動乱の際は、それを押さえ込んだ。後のチェコでの「プラハの春」はフルシショフを追放したブレジネフにより制限国家論が打ち出されたが、それと同等の考え方であろう。


このフルシショフを卑近な例で考えれば関前大阪市長に相当しそうである。
関氏は4代続いた助役からの市長であり、大阪市で厚遇問題等が発覚して前市長を批判(スターリン批判に相当)、市役所改革という新たな政治(平和共存に相当)を試みたが、自らの支持基盤である町内会・OB組織の厚遇は変えず、労組だけを切り捨てた(ハンガリー動乱での抑え込みに相当)。


結局、フルシショフはブレジネフ、コスイギンによって追放されたが、関氏は市民投票によって市長から追放された。


こうみると、ある種の政治的人間像が浮かび上がってくる。フルシショフのスターリン批判・アメリカとの平和共存政策が自らの犯罪的な過去を否定し、清算する必死の行動であったように、関氏の市役所改革もまた自らだけは過去を清算して生き延びようとする必死の行動であったと言えなくもないのである。


歴史を顧みるならば、政治的人間にみられるこの種の“転向”は別に珍しいことではなく、陳腐なことである。