「歴史と資料、昨日の続き」〜林達夫の洞察〜


昨日は「歴史と資料」について書いた。確固たる資料によってのみ歴史は構築されると。そこで、歴史にその名を残すのであれば、生前、後生に向けて資料を意図的に残す策をとる人間が出てきても良いはずだ。


そんな暇なことを……、やる人間もいたのだ。暇を売り物にする知識人という人種がそれである。


思い出したのは林達夫三木清の思い出」(著作集4所収 平凡社(1971))である。哲学者・三木清は、林達夫への手紙を将来の知的公衆が詮索の対象にするであろうことを頭において、書いていた。


ところが林は言う、「ところでその手紙だが、私はその当時から既に歴史的な学問に深い興味をいだいていたくせに、あるいはゆえに、自分のをも含めて、人の書いたものの保存などということには一向熱心ではなかった。歴史ほど人間の営みの空しさをしみじみ味わわせてくれるものはない。……彼の手紙はもはやほとんど全部散逸させてしまったらしい。」と。


流石はフルシショフによるスターリン批判の前に、「共産主義的人間」(1951)で共産主義スターリン批判を展開した左翼知識人だけのことはある。


歴史的な学問に深い興味をいだいていたくせに、あるいはゆえに、……「歴史ほど人間の営みの空しさをしみじみ味わわせてくれるものはない。」との洞察に達したのは、左翼知識人としては希有な存在であったことを示している。歴史教育に執拗に拘る人たちはこの洞察にどのように答えられるのであろうか。




昨日は「歴史と資料」について書いた。確固たる資料によってのみ歴史は構築されると。そこで、歴史にその名を残すのであれば、生前、後生に向けて資料を意図的に残す策をとる人間が出てきても良いはずだ。


そんな暇なことを……、やる人間もいたのだ。暇を売り物にする知識人という人種がそれである。


思い出したのは林達夫三木清の思い出」(著作集4所収 平凡社(1971))である。哲学者・三木清は、林達夫への手紙を将来の知的公衆が詮索の対象にするであろうことを頭において、書いていた。


ところが林は言う、「ところでその手紙だが、私はその当時から既に歴史的な学問に深い興味をいだいていたくせに、あるいはゆえに、自分のをも含めて、人の書いたものの保存などということには一向熱心ではなかった。歴史ほど人間の営みの空しさをしみじみ味わわせてくれるものはない。……彼の手紙はもはやほとんど全部散逸させてしまったらしい。」と。


流石はフルシショフによるスターリン批判の前に、「共産主義的人間」(1951)で共産主義スターリン批判を展開した左翼知識人だけのことはある。


歴史的な学問に深い興味をいだいていたくせに、あるいはゆえに、……「歴史ほど人間の営みの空しさをしみじみ味わわせてくれるものはない。」との洞察に達したのは、左翼知識人としては稀有な存在であったことを示している。歴史教育に執拗に拘る人たちはこの洞察にどのように答えられるのであろうか。