予測された『「M9」大地震』(「ニュートン」2007年10月号)

2011年3月11日の宮城県三陸沖を震源とした「東北地方太平洋沖地震」において、被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、犠牲になられた方々とご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。
また、被災地において、日夜を問わず被災者救助や災害対策に全力を尽くしておられる関係者各位に、深い敬意と感謝の意を表します。

ここに、『ニュートン』2007年10月号がある。この雑誌は本屋で眺め、惹かれると買って読む。そのときは、タイトル『「M9」大地震』に眼をとめた。
修飾文して、「空前の破壊力」「エネルギーは神戸地震の1000倍」「日本の西半分が震源になる可能性」、加えて「どうする原子力発電所の耐震補強」という文も小さく書かれている。

地震は巨大な津波を伴い、太平洋沿岸の地域に壊滅的な打撃を加え、それと共に発電施設、なかんずく原発施設を直撃、放射能拡散の危機をもたらし、首都圏を含む関東一帯を計画停電へ追い込んだ。

この一連の事象に対して“想定外、未曽有”との言葉が良く使われる。確かにそうだ。すべてのことが想定内であれば、私たちはお釈迦様だ。暴れまわる孫悟空(災害)を手のひらで捕まえ、封じ込めることができたはずだ。

では、想定外とは、想定を「できなかった」のか、あるいは「しなかった」のか。

雑誌が書くのだから、自然科学の世界では「地震津波」は想定されていた。一方、個々の地域での「壊滅的打撃─原発事故─計画停電」はどうか。当事者はここまでは「できなかった」と言うであろうが、人間社会の世界だから、「しなかった」から「できなかった」のかもしれない。

しかし、ここで大切なのは「しなかった」ことに対して自覚的に向き合うことだ。想定外とは、自らの思考の枠組の外の事象であるから、先ず、その枠組を解体し、起こった事実を組み込んで再構成することが必須になる。