マスメディアの抜きがたい固定観念〜川崎市長選報道〜

選挙は社会全体に変化するチャンスを与える政治的な「仕掛け」である。
 そこで問われるのは次の任期に何をするのかであって、過去の業績を問うわけではない。その意味で選挙は「株」を買うのと似ている。リスクを伴うのである。
 マニフェスト評価が選挙の役に立たないのは、「阿部市政の2期8年を問う選挙」という朝日新聞(10/12)の記事が決定的にナンセンスなのと同じである。

川崎市長選 4氏届け出 阿部市政8年問う 2009年10月12日 asahi.com
http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000000910130005

もし、「2期8年」が良ければ、それで次の任期を任すことになるのか?そんな馬鹿なことはない。これが地方自治体首長の多選から停滞、更に腐敗を招く根源にある思想である。

 政治的な「仕掛け」とは“祭り”である。アメリカ大統領選ではまさにそんな様子が映し出されている。日本での民主党への政権交代も選挙によってであり、自民党内部でのたらい回しとは違うのである。
 一番大きなことは国民の達成感とそれに伴う責任感の醸成である。これが政治的成熟へ向かう第一歩である。従って、国政はこれまでみられるように形式的な「引継政治」ではなく、躍動感のある「変革政治」の動きになっている。

 「始まりがなされんがために人間は作られた」
 1950年頃に著した浩瀚な大著「全体主義の起原」のなかでハンナ・アーレントは聖アウグスティヌスの言葉を引用した。
 選挙もまた、始まりのための政治的“祭り”である。始まりには当然終わりがある。これまでの政治的結果の総括である。しかし、総括に血眼になって古びた手口で「黒書」を出している政治集団もいる。出馬する現市長を排除して新人だけから話を聞こうとする矮小な市民集団もいる。これらの人たちは抜きがたい固定観念で報道を繰り返すマスメディアと同じメンタリティ「選挙は過去を問う」で活動しているのである。

選挙は「ビジョン」を描き、それに対する施策を創出し、多くの市民の納得を得る過程である。これなくして選ばれた市長は多くの市民を鼓舞し、統合し、困難に立ち向かうことはできない。