川崎市長選 大きな失政がなければ現職で良いのか?否!

 阿部市長は総選挙翌日の会見で「無所属で政党政治とは区別した形で地方自治を守りたい」と政党から距離を置く姿勢を示していた。しかし、その直ぐ後に民主党の「単独推薦で立候補したい」と公募に応じた。基本的な姿勢での変心、それも自らの三選のために信義を破ることも厭わないというなりふりかまわない選択であった。

 民主党はこれによって揺り動かされたのであるが、結果は市民の選択肢を増やす形で気鋭の若手・福田県議を抜擢する決断をした。

 この間の報道で見逃すことの出来ない意見を読んだ。阿部氏の変心について、民主党の市議から次のような意見が出たことが報道されている。
 「阿部市政の8年間に大きな失政はなかった。個人的には阿部氏でいい」
衆院選での民主圧勝の余波、川崎市長選は情勢混とん 2009/09/07 カナロコ
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivsep0909161/

 失政とは何かという議論もあるだろう。おそらくこれを議論するだけでまとまらなくなるのは必至である。
 確かに、汚職、裏金、新たな赤字事業(例えば、東京都の銀行新設、横浜市150周年記念)は川崎市になかった。だが待て!市民にとって失政がないのは当り前ではないか。あれば、議会もろともの責任である。
 更に、市長選の本質は次期リーダーを選ぶことである。過去を参照する必要があるが、それはあくまで将来へ向けてである。市長は過去の実績で決めるものではない。
 選挙で選ぶ理由は将来のリスクを共有するためである。
 その意味で株を買うことと少し似ているかも知れない。いやそれよりも、例えていうならば、会社の昇任人事と同じである。それは過去の論功行賞ではない。先へ向けた期待である。であるから抜擢人事が生まれるのである。

 民主党の或る議員の「大きな失政はなかった。続けてでいい。」との論理は結果として地方自治体首長の多選とそれによる澱みを生む源泉となる思想である。この思想を徹底的に糾弾しなければならない。

  失政と政策意見の相違とは異なる問題である。失政は論外で、それがないことは前提に過ぎない。そのうえで、お互いの政策意見を出しあい、その違いを明確にし、政策と対応した形で複数の立候補者が出揃って始めて実質的な選挙になる。
 残念ながら前回はそうではなかった。非常に低い投票率であった。国政で選挙による政権交替が可能であることが示された今、自治首長選挙でも、現職に対する挑戦者が出ることが必要なのである。

 今回、民主党・福田氏の立候補で先ずは環境が整った。このうえは自民党公明党からも立候補者を立てるべきである。
 再考すれば、阿部市長のなりふりかまわぬ右往左往ぶりこそは政策以前の信頼関係を打ち壊したものであって、政策以前の問題、或いは失政以前の人間的な資質の問題ではないか?

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