「玉虫色の妥協」と「合意形成」との違い〜多摩市議会改革特別委員会傍聴記3

 条例案策定の大筋に沿って改革骨子は“総論賛成、各論収束”と書いた。しかし、8会派それぞれ調整した意見を持ち寄った場になっており、主張の力点等、各論の議論は興味深い内容が含まれており、議会・議員のあり方そのものに示唆を与えてくれる。筆者が関心をもった論点(辛口批評をしたい処)を紹介しよう。

 改めて、「改革骨子案」の原則を確認しておこう。先の4点である。当然、これらの原則を念頭においた議論でなければならない。
1.行政へのチェック機能強化
2.議会による政策提案機能を充実
3.討論による合意形成
4.市民によく見える、市民が参加する議会
 
 各論の最初は「会期の弾力的運営」であった。これは官僚的用語の典型だな、と思って聞いていると、『通年会期の言葉を入れよう』、『いや、そこまでは考えていない』、『専決処分をできるだけ避けること』、『招集権は市長にあるが、招集請求権を積極的に使うこと』、『そういうことも含めて検討するでは?』との議論が次々に飛び出す。
 それでも委員に修正文案を求めながら委員長が収束を図り、落ち着くところにもっていく、『なるほど、お互いの意図をできるだけ含めるような言葉の調整か、これが今日の“具体的課題”なのだ』と改めて思った。
 但し、これが「1.行政へのチェック機能強化」の方策であるとすれば、「弾力的運営」として具体的に何を成果として引き出そうとしているのか?議論のなかからはなかなか見えてこなかった。

 要は地方自治法が「市長招集権」を規定しているから議会が「会期を自己運営」できない。従って「弾力的運営」を考えるということなのか。それなら先ずストレートに法律の不備の立場をとる方が分かり易い。或いは「市長招集権」の改定を必要としないという考え方と両方あるのか?そこが市民から見えるようにしておくことでも議論を明確にできる。
 しかし、「弾力的運営」という「玉虫色の妥協的表現」が具体的にわかるのはその場の議論に参加している人たちだけではないか。いや、時間が経過すると委員のなかにも経緯を忘れる人もでてくるであろう。そうすると振り出しに戻った議論が何度も続く羽目に陥ることも有り得る。

 更に、この改革骨子を市民に示すということであれば、常に市民がもとめていることに対応していこうとする姿勢が必要である。そこで大切なのは方向性を示すメッセージであり、官僚的なあいまい用語はマイナスイメージを与える可能性もある。
 委員間の討議が言葉の調整を目指して真剣さを増すほど、周囲にいるはずの仮想市民の姿が見えなくなるというパラドックスが生じる。今回のように傍聴者がいたとしても、である。しかし、これはある種避けがたいことのように思える。特に市議会だけでなく、一般的に会議そのものにつきまとうことだからである。

 例えば、「議決案件の追加について」の議論で、「追加」をとったのだが、これでは市民に対して何のメッセージにもならないと感じた。議論を忘れ、改めて「議決案件について」を眺める。何を改革するのか判らない。次に解説がつき、説明したとしても、直観的に理解できないことはどこか腑に落ちないのである。

 『追加しないことも含めての追加検討だから』との議論を妥協の産物として採用したからであるが、これもやや議論のための言葉と感じられた。内部にいる委員だけで、かつ、その場でだけ通用する議論になって、委員会が外部に対して閉じられている形に見える。
 こういうとき、冷静に「4.市民によく見える、市民が参加する議会」という原則に沿っているのか、指摘する機能を果たす役目の人が必要なのだが、なかなか難しい。委員長が経緯を振り返り、考え方を確認しながら進行しているうちは良いが、議論に入り、調整することに没頭してくると、全体が調整だけに囚われることになる。
 これはこの項目だけでなく、意見が出された個別の議論全般に感じるところでもある。
 
 「議決案件の追加」は市長対議会の関係であるからまだ良いが、「市民提案」の取扱になってくると、市民の直接的問題になる。請願・陳情とは異なるルートでの提案に対する議会としての受け皿をどうするのか。所謂、議会としての広聴制度である。筆者は『仮称・議長への手紙』制度を川崎市議会に提案(要望書提出)したのであるが、結局はぐらかされている。
 これに対して『議員が努力すれば良いのであるから新たな制度は必要なし』との議論とその反論、『議員ひとりに対してではなく、議会に聞いてもらいたい市民もいる』、もあった。しかし、『議員が努力する』のであれば、議会として聞くことに反対する理由はないように思われ、この程度は合意していないと骨子案に入らないのではないかと感じた。しかし、妥協はできても、合意が形成されたとは言い難い面もあるのだな〜、そんな印象をもった。
 合意とは討論の過程で形成された知的な製作物である。それは素材(様々な意見)を加工して作り上げたものであるから単純に素材へ戻ることはない。素材となった意見を再度主張するにしても合意内容を踏まえてのことになる。

 しかし、妥協はこれと少し異なり、箱(例えば、上位概念、抽象的表現等の玉虫色の表現)の中に素材(様々な意見)がそのままの形でゴロゴロ入っているイメージであっても可能である。従って、時として素材としての意見が、取り敢えずの妥協で抑えていたことが忘れられ、そのまま噴出し、議論が元に戻った、即ち先に言った「振り出しに戻る」感じを抱かせる。

 合意を妥協の枠組としてのみ理解するというのが我々の政治的風土であるのかもしれない。また、これを少し大きくいうと、丸山真男氏が提起した精神的次元の独立に係わる問題かも知れない(『肉体文学から肉体政治まで』(「増補版・現代政治の思想と行動」所収)未来社(1964))。

 それはともかく、改革派としてはできるだけ説得し、納得したことは合意であって、枠組が変わらない限りは次のステップに議論を進めるというスタンスが必要と考える。これも討論する場合、常に前提条件として意識的に共有するように努力し、“妥協の風土”の上に“合意形成の風土”を上書きすることを試みてほしい。自由討論による「争点―合意形成」を制度化しても実態が伴う場合が少なくなりそうな気がするからである。しかし、多数がある程度合意している状況では、これをあからさまに主張しないことが話を進めやすいという考え方もある。多摩市議会がどう進めるのか関心をもつ所以でもある。
 
 他に興味のある各論として、「一般質問」のあり方、「代表質問」の復活も議論されていた。また、「文書質問」の必要性について意見が分かれていた。
 議会における「質問」とは何か?市政全般について現在の状況や方針・計画等について聞くことである。聞くことは必要であってもそれが議員の主要な仕事なのか、片山前鳥取県知事が地方分権改革推進委員会ヒアリングにおいて、議会の質問を八百長、学芸会であるとの発言したことを待つまでもなく、再考の余地があると思う。しかし、存外、質問そのものの意義、方法を見直す議論は行われていないようである。

 筆者からみれば、川崎市の場合であるが、摺り合わせをした部分や台本があるような質問は「文書質問」にすれば良いようにみえる。また、議会全体としてまとまりのない一般質問は議員のパフォーマンスのように思える。議会にとって議案審議に対する質疑・討論、条例等の提案、市政への質問、どのような考え方でそのバランスをとるのか、議論が必要ではないか。そんな思いをもっている。

 他にも関心をひく議論もあったが、メモも不備でここまでにしておく。
ともあれ、川崎市民にとって、多摩市議会は身近に先を走っている自治体としてrespectしながらwatchingすべき存在であることは確かである。


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