政治的言語としての“ふるさと”考 (5) 〜何故、“ふるさと”〜

政治的言語としての“ふるさと”考、とあるように、時としてふるさとは政治の世界に蘇ってくる。


教育基本法」に『“郷里”と我が国』が並記されていること、「ふるさと税」として『“ふるさと”と税』とが一言になっていること、これらのことへの直感的な違和感が“ふるさと”を考えさせたのである。


すでに(1)で論じたように“ふるさと”とは、自分自身が直接に触れた処、家族、仲間、友達と共に過ごした「実の世界」である。
 http://d.hatena.ne.jp/goalhunter/200707017


しかし、そこでも述べたように、イメージとして(美化されながらも)具体的に思い起こす処に「虚の世界」としての“ふるさと”が存在する。
「うさぎ追いしかの山こぶな釣りしかの川、夢は今もめぐりて忘れがたき故郷」
「ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの」
「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」


この虚実が織りなす二重性が、政治的言語として“ふるさと”が利用される所以である。


先ず、“ふるさと”は極めて限定的なもので直接に存在する世界あること。素朴な経験の世界として政治の外に存在するものであること。認識象徴としての“ふるさと”として確認し、政治的組織象徴(イデオロギー)から“ふるさと”の解放を試みたかったのである。


政治的言語としての「ふるさと」がどのような政治的組織象徴(イデオロギー)として用いられるのか。政治に対して関心を持つ人たちがその組織象徴にどのように反応するのか。政治の世界はマスメディアにネットメディアが加わり、ますます情報空間が拡大する。それに伴って幾重にも幻影が我々を取り囲んでいるかのように思える虚の世界。


一方、実社会とは、拡大された情報空間の中でヒト、モノ、カネのリソースが相互に影響を及ぼしあって生きる世界である。虚実の交錯する世界に対して直接存在の世界としての“ふるさと”が対峙する。


HP「散歩から探検へ」に“川崎市政との対話”を掲載
  http://www.h7.dion.ne.jp/~as-uw/
MM「探検!地方自治体へ」で“川崎市の行政・議会”を議論
http://www.h7.dion.ne.jp/~as-uw/melmaga_01.html