政治的言語としての“ふるさと”考(3) 〜続・ふるさと税〜

昨日、小中学校の修理・改修工事にふるさと税を利用する、と書いた。


ところで、もし、小中学校の修理・改修工事にふるさと税を利用するというのであれば、小中学校の修理・改修工事に先輩として寄附を考えれば良い、という議論もありそうである。それが純粋な気持ちの表れであろうとの説も成り立つところである。おそらく寄附の場合は使い道を云々することはないであろう。自発的にすべてを託すからである。


一方、ふるさと税の場合は本来、納税者としての権利があるはずだ。しかし、この権利についての議論を耳にしたことがない。ここにふるさと税の奇妙な論理が隠されている。即ち、ふるさと税は「ふるさとを思う気持ちの表れ」から義務である納税の一部を、“寄附的感覚”でふるさと納める権利を個々の納税者へ与えることと解釈されているようである。


義務である納税において、その一部の行き先を納税者の権利に変換し、一方、納税者としての行政への注文を「ふるさとを思う気持ちの表れ」である“寄附的感覚”によって遮断し、実質的にその権利を放棄させる。これが「ふるさと納税」のメカニズムである。


そうすると、地域Aに住んでいるB氏は「ふるさと納税」を払わず地域Aだけに地方税を納め、C氏はふるさとである地域Dに地方税の半分を「ふるさと納税」として納めていたとする。地域Aの公立プール施設Eは地方税ですべて運営されているとすれば、B氏はC氏に対して2回に1回は地域Dのプールを使いに行けと言ってもよさそうである。


何故ならば、C氏は「ふるさと納税」の権利を地域Aに了解無く、納税者として自らの判断で行使したからであり、その分、地域Aからみれば、自らの地域Aの権利を放棄したはずと考えられるからである。


HP「散歩から探検へ」に“川崎市政との対話”を掲載
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MM「探検!地方自治体へ」で“川崎市の行政・議会”を議論
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