再掲・短書評『学力を育てる』志水宏吉著(岩波新書)

 昨日のブログに書いた「教育論フォーラム」の聴講内容をつらつらと考えているうちに、表題の本を思い出した。

 旧備忘録に短書評を掲載したが、それを再度ここに掲げる。というのは、市町村長さんたちの議論は、それなりに面白いのだが、「群盲、像を撫でる」という感は免れない。更に、どうしても(政治家であるから当然だが)、自らの試みを互いに自画自賛するだけで、批判的議論にならない。結局、それでどうなんだろう、という思いになってくる。

 その点、志水氏の著書では、広いデータに基づいてポイントを定め議論しながら、例外的な事象に注目して先駆的業績に迫り、本質を摘出しようとしているところが違うのである。

 
 以下、再掲の書評である。

 
確固たる学力観と、プロジェクトによる着実な分析研究の実施に支えられた学力育成の具体的な方法論を提案している。

 しかし、この本が価値を有する理由はそれだけでなく、近年の「学力低下論争」を中心とする教育論、論じられているが一向に認識が深まらず、混迷が深まるばかりの教育論に対する批判的な回答の書になっているところのもある。

 筆者の学力観は「学力の樹」として第1章で述べられるが、概念が論じられるだけでは、マスメディアを含めた既存の「学力低下論争」に屋上屋を重ねることに過ぎない。自分勝手な議論の展開を抑えるためには、「データにもとづいてモノを言う」ことが必要であり、その根拠として第2章に調査結果が示されている。これが批判的な回答という意味で重要なポイントであり、「概念とデータ」の両輪を備えた議論として後々までに有効性を保つのである。

 以上の「概念とデータ」をベースにして、学力育成の具体的な方法論として、家庭、学校、社会の役割が論じられている。家庭では「習慣づけ」の必要性が指摘されている。また、学校では、筆者らの調査によって浮かび上がった「がんばっている学校」のフィールド調査が紹介され、「力のある学校」という概念が示される。更に、社会では、「教育コミュニティ」が提唱されている。具体論として、単なる学校教育だけに限らず、一つの社会論として多くの方が読みこなすべき示唆に富む内容を含んでいる。

 また、プロローグから第1章の概念提示のプロセスは、通常の概念説明にありがちな難解さを避ける工夫がなされており、書く立場からも非常に参考になると思われるのでかいつまんで示しておこう。

 プロローグ、生い立ちから大学までの著者自身の学力形成史を語ることで、本著の中核概念となるメタファーとしての「学力の樹」を具体的に示している。ある意味でここにすべてが込められていると言っても良く、読者は共感をもって筆者の「自分史」に引き込まれる。「樹」という言葉で、著者が言いたいことが「自分史」という具体的な記述で読者にも何となく見当がつき、その後の展開を理解し易くしている。ここで「学力の樹」の根っこの部分を我々は納得することができるからである。

 そこまで理解できると、筆者の学力観の理論的な説明となる「学力の樹」の展開(第1章)を気持の上でのバリヤ(何だか難しそうな理屈だなと感じること)を低くして読める。そこには、言葉をイメージに転換するサポート役の図が用意されている。

 「図1−1 カリキュラム改革の振り子」、何だかこれまでの改革が右往左往していることが判る。

 「図1−2 広岡亮蔵の学力モデル」、これまでにある概念を先ずは示しているようだと感じる。

 「図1−3 学力の氷山モデル」、見える部分(氷山の一角)ともっと基盤にある見えない部分とがあり、見えない部分の存在を強調するのだな、と推測できる。

 「図1−4 学力の樹」、いよいよ筆者のモデルで、根、幹、葉から構成される階層構造の提案で、“大地”、“太陽”、“養分(水、肥料)”もメタファーとして論じられると期待する。


 以上のように、理論の直接的な説明だけで終わることなく、先ずメタファーを提供し、文学的な表現(自分史)とイメージ表現(図面)をサポート資料として使いこなしていることが際だった平明さを与えている。

HP「散歩から探検へ」に“川崎市政との対話”を掲載
  http://www.h7.dion.ne.jp/~as-uw/
MM「探検!地方自治体へ」で“自治体・川崎市政”を議論
http://www.h7.dion.ne.jp/~as-uw/melmaga_01.html