再掲・幻想の中の少年野球チーム

昨年の元旦に、あるHPへ投稿した原稿、そのHPも殆ど見ることができないので再掲します。

 

小学生時代。当時はサッカーなど知るよしもなく、野球に明け暮れる毎日であった。小学校へ上がる以前からゴムボール、三角ベースの草野球に慣れ親しみ、ラジオでプロ野球の実況中継を聞き、新聞のスポーツ欄をみて巨人の成績に一喜一憂していた。そういうわけであるからプロ野球は小学生以前に後楽園で初観戦、確か昭和28年の巨人対阪神戦のナイターだったと思う。川上、与那嶺、千葉もいたが、ナイター光線にキラキラ光る南村の黒バットが今でも印象に残っている。


 3年生の時、近所の遊び仲間6名とチームを作った。6年生2名、5年生2名、4年生1名と最年少の私である。6名では正式の野球にならない。そこで、5年生のひとりがクラスの友達を引っ張ってきて10名以上になった。最年少であったが、それでも私自身は投手を志望し、他の5年生3名の投手と交替で出場していた。もちろん、5年生からはワンマンで、フォームが当時国鉄スワローズ巨人キラーだった金田に似た(と言われたことがある)サウスポーとしてならしていた。


 話は3年生の時に戻り、夏休みに少年野球大会があることを知って出よう、出ようということになった。その時の主催者は警察で、どうも非行防止の観点から少年野球を推進していたらしい?近所の警察署に行って、届出の手続を聞き、組合せ抽選会もそこで行われた。ともかく、その警察署に入ったのは野球大会の時だけである。規定の中に誰か大人が統率者として必要であることを知って、皆で相談した。その頃、子供の野球チームの面倒をみるような親はいなかった(できなかった)。丁度、5年生のひとりに二十歳を過ぎた年が離れた兄弟がいた。普段もたまに遊んでくれることもあって、その人に頼んでみようということで快諾を得た。ただ、それは形式だけであって、今風のコーチではない。


 さあ、練習はどこでやろう?近くの空き地を探して集合し、或いはそこに先客がいると皆で別な場所まで走っていく。少し遠くにある大学、企業のグラウンドに(当然)無断で入り込む。統率者に頼んだお兄さんに公共のクラウンドを予約してもらう等々。用具は?「瀬戸内少年野球団」の世界よりはあとの年代で、流石に母さんが夜なべをして作った手縫いのグローブという美談はなく、各自買ってもっていた。バットは何人かがもっていて適当に使っていた。ユニフォームまでいくと、チームとして揃えるなどという話は全くなく、てんでバラバラで短パン姿もいたはずである。水筒を持っていくこともなく、喉が渇いたらその辺の水道の蛇口から水を飲んでいた。当然、応援に来る親などいるわけがない。


 大会には色々なチームが出ていて、帽子だけは揃っているとか(その時、この程度は揃えるべきとの説もでた)、コーチがひとり指導しているとか、ユニフォームは着ていないがチーム名は胸に書いてあるとか、何となく覚えている。審判は全然知らない人で、これは主催者が募って集めた人たちであろう。最初に出場したとき、1回戦は楽勝であった。随分得点をいれたと思うが、この時審判の説明で移動ベースと固定ベースという言葉があり、ルールは固定ベースということを覚えた。話が通じますか?結局、2回戦敗退であったが、その時の相手チーム名が「山谷タイガース」。中学校で一緒になる隣の山谷小学校のチームであった。では、我がチーム名は?それが覚えていないのだ!!


 でも、ともかく自分たちでやった(やるしかなかったし、それが当然だった)。野球が好きで夢中でやった。だからチーム名などどうでもよかったのだろう。

 大谷戸SCというチーム名は忘れ、ただサッカーに夢中になっている少年たち…。それが私の初夢にあらわれるであろうか。



HP「散歩から探検へ」に“川崎市政との対話”を掲載
  http://www.h7.dion.ne.jp/~as-uw/
MM「探検!地方自治体へ」で“自治体・川崎市政”を議論
http://www.h7.dion.ne.jp/~as-uw/melmaga_01.html