堀江被告とは何者だったのか(2)?〜東京裁判の被告との比較〜

 今日の話は昨日の続き…、とは前田武彦の「昨日の続き」の終わりの科白である。高校生時代、ラジオ関東の夜の番組として、あと、城達也の「ジェットストリーム」。このテーマ音楽を聴くと、夜も更けたな、との感情が湧いてきた。


 さて、堀江被告は、自らが社長として「黒字にしろ」と言ったことが、「罪になるのか」と感想を述べている、と報道されている。堀江被告の立脚点は、それ以上のことは指示していない、あとは部下がやったこと、ということであり、一般論として「黒字にしろ」ということは社長であれば、誰でもいうだろう、という論理のように思える。
 社長が「黒字にしろ」と言うことは、スポーツチームの監督が選手に「試合に勝て」と言っているのと同様に、当たり前のことを当たり前のように言っているだけで、何も言ったことにならない。


 堀江被告がその論理を展開したとき、彼は自分自身を何者だと考えていたのだろうか?
これが筆者の問題意識である。
 ここで、昨日書いたように、丸山真男氏の「軍国支配者の精神形態」(『現代政治の思想と行動』所収)に描かれた“神輿”を思い起こした。


 この論文のなかで氏は日本ファシズムの権力階層として、「神輿―役人―無法者」を描いた。状況を創り出すのは無法者であるが、無法者はそれに止まり、権力への意思を持つわけではなく、権力の上層に上がることはない。神輿は単なるロボットであり、そこから下降する権威(正統性)を基礎にして実権をふるうのは役人である。
 これに対して、ナチ指導者はヒットラーをはじめとして無法者の集まりであり、それが権力の中枢にまでのし上がった存在である。

 堀江被告は企業を興し、状況を創り出したという意味では“無法者”である。それが、ライブドアを率いる社長として名前を挙げ、衆議院選挙の候補者にまで上りつめた。ナチ指導者と同様に、無法者が企業トップに成り上がったのである。

 丸山氏は日本ファシズムの“神輿”が、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」によって「自己弁護」と「責任回避」にいきつく様を東京裁判の法廷における彼らの答弁から見事に引き出し、ナチ指導者の“無法者”としての権力への意思による自己主張と対比させ、その矮小性をえぐり出した。

 一方、堀江被告が“無法者”として企業を興し、それが或る程度の規模の企業となり、そのトップリーダーとして君臨したとき、彼はナチ指導者のような“無法者”から日本ファシズムの“神輿”にすり替わったのだろうか?


 東京裁判ならぬ、ライブドア裁判の報道に接するとき、「あとは部下がやったこと」との答弁のなかに、戦後民主主義の中でも、戦前の軍国主義と変わらぬトップリーダーの矮小なる精神形態が見出されるのである。


「吉井 俊夫のHP・散歩から探検へ」:川崎市政関連の論考を掲載。
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